スポーツ科学および生理学において、地球の重力と同じくらい絶対に逆らえない原理原則があります。それが「Specific Adaptation to Imposed Demands(課せられた要求に対する特異的な適応)」、略して「SAIDの原則」です。これは非常に残酷なルールで、簡単に言えば「人間の身体は、やらされた事(課せられた刺激)に対してのみ、ピンポイントで特異的に成長(適応)する」という法則です。ジムでの筋力トレーニングで重いものを持ち上げられるようになったからといって、その力が実際のスポーツの動作(走る、跳ぶ、投げる)や、日常のパフォーマンスにそのまま100%反映されるとは限りません。ジムで作った「筋力」を、現場で使える「競技力」へと変換し結びつける概念が「筋力転移(Transfer of Training)」です。
01マシントレーニングの落とし穴
例えば、ジムの「レッグプレスマシン」で400kgという凄まじい重さを押せるようになった人がいるとします。では、その人はバーベルスクワットでも200kgを軽く担いでしゃがめるでしょうか?答えは「NO」です。おそらく100kgでもグラグラして潰れてしまうでしょう。
なぜなら、レッグプレスマシンは「軌道が完全に固定されており、身体が倒れないようにマシンが体幹の安定性を代行してくれている」からです。SAIDの原則に従えば、その人は「マシンに背中を預けて、安全なレールに沿って重りを押し返す能力」だけが特異的に異常発達したことになります。自らの腹筋や背筋(体幹)で重いバーベルのバランスを取りながら、三次元の空間で重心を制御する「スクワットの能力」は全く鍛えられていなかったのです。
これが、アスリートがマシンを極力使わず、フリーウエイト(自らのスタビライザーで軌道を制御する種目)を圧倒的に重視する最大の理由です。フリーウエイトの方が、実際のスポーツ動作に必要な「バランス能力」や「全身の協調性」への転移(Transfer)が遥かに高いからです。
02運動ベクトル(力の向き)と速度の特異性
筋力転移を高めるためには、ジムで行う種目の「力の向き(ベクトル)」を、実際の目的動作に近づける必要があります。
例えば、バスケットボールのように「垂直方向に高く跳ぶ」能力(ジャンプ力)を上げたいなら、スクワットやデッドリフトのような「垂直方向(上下)のベクトル」を鍛えるのが極めて有効です。しかし、陸上競技のように「前方へ速く走る」能力(スプリント力)を上げたいなら、スクワットだけでは不十分です。ヒップスラストや重いソリ押し(スレッドプッシュ)のような「水平方向(前後)のベクトル」を持つ種目を鍛えなければ、効果的な転移は起こりません。
また、「速度」の特異性も重要です。重いものをゆっくり歯を食いしばって挙げる(高重量・低速度)トレーニングだけを一年中していても、軽いものを素早く爆発的に動かす能力は向上しません。自分の競技特性に合わせて、トレーニングの速度も合わせる必要があります。
- 特異性の要素:使用する筋肉群、関節の角度、動作の速度、力のベクトル(方向)、エネルギー供給系。
- 目的動作とトレーニング動作が似ているほど、筋力転移の効果(トランスファー・エフェクト)は大きくなる。
03一般人にとっての「特異性」
アスリートだけでなく、健康維持やボディメイクを目的とする一般人にとっても特異性は重要です。「日常生活を楽にしたい、疲れにくい身体になりたい」という目的(特異性)があるなら、座ったまま行う単関節のマシントレーニングよりも、自分の足で立ち、重力を感じながら全身を連動させるスクワットやファーマーズウォークの方が、圧倒的に「実生活で使える筋肉」へと転移します。
過度な特異性(サーカストレーニング)への警鐘
「野球のピッチングの動作に負荷をかけよう」として、軽いダンベルを持って投球フォームのシャドーピッチングをするのは最悪のアプローチです。動作が実際の競技に近すぎると、脳の精密な運動プログラムが「重さ」によって狂ってしまい、逆にパフォーマンスが低下します。ジムでは「基礎的な筋力とパワー(エンジン)」を大きくすることに専念し、その大きくなったエンジンを「実際の競技練習」の中で動作に結びつける、という役割分担が正解です。
まとめ
あなたが今、ジムで必死に行っているその種目は、あなたが最終的に成し遂げたい「理想の動作やパフォーマンス」のベクトルと一致していますか?ただ闇雲に重いものを挙げるのではなく、目的から逆算し、トレーニングのフォーム、速度、ベクトルのすべてに明確な「意図(特異性)」を持たせること。それが、努力を無駄にしないためのバイオメカニクスの極意です。
